裂けた岬―「ひかりごけ」事件の真相 (1994)

11 月 1st, 2006

1943年、日本軍の徴用船船長が真冬の知床半島で遭難。2ヵ月後に帰還すると「奇蹟の神兵」としてもてはやされるが、実は同僚の人肉を食べて生き抜いていた事が発覚し、その名声は地に落ちる (Wikipedia:ひかりごけ事件)。本書は戦後15年かけて取材し、船長本人の独白形式でつづったドキュメンタリー。

P.P.リード:生存者(2000)は、人肉食という価値観の大転換が起こるのは、その特異な状況にあると思わせる内容だった。しかし本書を読むと、その考えはおおむね打ち消される。船長の独白や、著者が取材した精神科医らの話によれば、むしろ状況はきかっけに過ぎない。真冬の知床で体感温度は零下20度に達し、食料もないという状況は、人の精神を徹底的に痛めつけ、理性の働きを完全停止させる。動物に戻った飢餓人間の前に食べられるものがあれば、それが人肉だったとしても食べてしまう。本書はこうした状況が誰にでも起こることを示唆しているともいえる。

この事件が極めて興味深いのは、それが当時の日本の状況とシンクロしていることだと思われる。軍部は、帰還した船長をこれ幸いとプロパガンダに利用するが、実際は言い訳のできないおぞましい行為が隠されていた。これを事件として体制が裁くのは、もてはやした自らを傷つけることに等しく、船長への判決が異例の軽さだったという点も理解できる。軍や体制側が表面にばかりこだわる姿勢は、本書の事件にも影響を与えており、当時の状況を理解する上でも興味深いといえる。

ドキュメンタリーには珍しい1人称視点だが、おぞましい事件を読みやすくする効果がある上、戦時下という状況や真冬の知床という特異な状況も加えて、ある意味現実感のない浮遊した印象を受ける。著者が飢餓体験をしてみたり、学識者らを取材したりしている点も好感が持てる。そして衝撃的なのは、83ページの写真だろうか。もうここまで来ると、本書を通して間接的に人肉食をしているのと変わりない。この本を面白いというと誤解されそうだが、現実離れした事件と理性の間を行き来する、麻薬のような魅力がある。

カテゴリー: ノンフィクション, 太平洋戦争 | タグ:

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